No. 185 明治維新前夜の岩倉メモ
大姦物と言われた岩倉具視は文久2年(1862)8月、和宮降嫁問題に絡み辞官落飾で洛外追放処分となり、居を移しながら洛北の岩倉村に蟄居を余儀なくされました。雌伏5年余、慶応3年(1867)12月8日岩倉は赦免され、翌日参内して一挙に王政復古を奏上。これをうけて天皇(明治帝)は「王政復古の大号令」を発しました。まさにクーデター。岩倉は蟄居中、人脈を駆使して周到な準備をしていたのでした。
上掲図版の文書は、慶喜の大政奉還(慶応3年10月14日)から王政復古に至る間に記されたと思われる岩倉のメモ。前文13項は、岩倉の腹心であった香川敬三の筆記、末2項は岩倉自筆。
「一 神后今世ヲ知ロシメシタランニハ 一 信長豊公家康等今世ニ生レシメハ云々 一 自守遠略狂直云々 一 皇国弾丸黒子ミ地云々 一 文草野ノ臣ニ奪ハレ武ハ自ラスツ 一 文章明経両博士学院ノコト 一 天下ニ令ノコト 一 薩長私ニ外親ヲスルコト 一 覇府ノ論ノコト取捨 一 黄門光圀ノコト 一 一人ヲ欠時ハ一人ノヨハミ 一 今世外夷豪傑ノコト 一 眩惑セサルヨフ心酔致サラ様二ツノモノ一大事ノコト」
この文書には、「前文十五行ハ小林彦次郎(香川敬三)氏ノ筆ニシテ 後文三行ハ岩公之真筆也」の紙片が貼り付けられています。「眩惑」の上に「元悪」の文字が取り消されていることから、前文は岩倉の口述を香川が筆記したことが解ります。
神功皇后が今の世を知ったら如何に思うか。信長、秀吉、家康が今の世に居たら。自守し、遠大な謀で世直し。(幕府は)机上で政治を行う臣に任せ、武力を失ってしまった。学府創立、教育が重要。王政復古の大号令。薩長はふたごころのないように。大坂、江戸遷都のこと、取捨。光圀の尊王思想(あるいは慶喜のことか)。盟友の一人が欠けても揺るぎ無く遂行。今の世、外国の武力は絶大だ。一つのことに惑わされないよう、また心を奪われないよう、これは大事なことだ。
岩倉自筆の2項はなお重要。「一 公卿婦女子ノ事」。これは、王政を確立する上で、天皇の取り巻き公卿(平安藤原氏以来の摂関制の廃止)・女官の切り捨て、遷都をもって振り払う、の意か。
最後の項は、「草莽志士頻リ鼓舞セラレ亦頻リニ賊徒トシ褒貶ノ事」。脱藩浪人あるいは下級武士の志士は、しばしば奮い起こさせて上手く使うことも肝要だが、必要が無くなれば逆徒として処罰、煽てと切り捨てのこと。これは龍馬の顔が浮かびます。今一度このメモの記された期間を見直すと、10月14日から龍馬・中岡暗殺の11月15日の間の覚書である可能性が出てきます。
岩倉具視(1825~83)は、下級公卿堀河家の次男として生まれ、朝廷儒学者伏原宣明に才を見出されて岩倉具慶の養子となり、まもなく元服して昇殿を許されるようになりました。29歳のとき歌道の師と仰いで関白鷹司政通に近づき、学習院を創設して公卿の子弟教育を図って、有能な人材を登用する旨の朝廷改革に関する意見書を提出。それが評価され、孝明天皇の近習となりました。
岩倉の根幹思想は一貫していました。日米和親条約調印の勅許を求めて老中堀田正睦が上洛したとき、反対して廷臣八十八卿列参を行い、「神州万歳堅策」を奏上しました。これは、条約には反対。条約拒否のときの防衛・財政政策、単純攘夷は否定。相手を知るために海外使節の派遣。米国との交流の可能性。国内防衛の為徳川は改易しないと伝え心服させる。というもの。つまり、武力を強化して独立を守り、世界における日本の位置を把握する。アジアにおける米国の海外政策も知っていたのでしょう。
蟄居中岩倉は、朝廷上層や旧知の小松・大久保宛に盛んに意見書を認めました。また、岩倉の国を思う情念に吸い寄せられた松尾、藤井、三宮、大橋(土佐)らを通じて水戸藩の香川、王政復古勅の草案や錦旗のデザインを手掛けた玉松操らが集まり、岩倉ブレーンが形成され、更に、西郷、中岡、坂本と広がり、最終的には、シンパの中山忠能、正親町三条実愛、三条実美、大久保、西郷、木戸らと新政府を作ったのでした。岩倉には目的の為には、清濁併せ呑む度量があったのでしょう。