幕末日本人の海外知識『海国図志』と横井小楠を中心に1
19世紀前・中期の東アジアは、英、露、米西洋列強の武力を伴った勢力拡張策に翻弄された訳ですが、その具体的発火が清・英間のアヘン戦争(1840~42)でした。欽差大臣としてアヘン厳禁策を実施し、結果的に敗北した林則徐は、その反省から世界情勢の把握の必要性を痛感して、朱子学、考証学に抗して春秋公羊学に基づく経世致用の学を唱えた魏源(1794~1857)に、自ら資料を提供してそれらをまとめることを依頼しました。
『海国図志』(60巻)は魏源が、林則徐から提供された同氏の訳本『四洲志』(1838年刊、50巻)、『澳文月報』、『粤東奏稿』、船砲模型図等を基礎として、中国歴代の史誌、明朝以後の島誌、西洋からの地図・地誌等及び中国在留宣教師らの情報に拠って著述、道光23年(1843)に刊行したもの。その『四洲志』は、米国公理会最初の中国派遣伝道師ブリッジメン(E.C.Bridgman裨治文)の著した『聯邦志略』が原本。ブリッジメンは、1830年に広東に着任し、月刊”The Chinese Repository”(1832~)を刊行、新訳聖書の漢訳完成にも参画し、大きな業績を残した宣教師でした。
元本は地理中心でしたが、魏源はこれに各国の歴史、国情を加え、更に巻末に造船、鋳砲、測量、砲台建設、火薬製造、西洋機器の技術等の解説を付けて実学を明示したものとしました。
西洋列強が押し寄せる幕末の日本に世界情報を提供して、多くの憂国の士に最も影響を及ぼした書はこの『海国図志』でした。熊本藩士横井小楠(1809~69)は、江戸遊学中(1839~40)に志筑忠雄訳『鎖国論』写本(ケンペル原著)を読んで世界的な視野が広がり、更にこの書に接して明快なる国際感覚が構築され、後に幕府政事総裁職松平慶永の顧問として、また将軍慶喜にも日本の指針を示すに至りました。本書を熟読した記録に残る主な指導者には、吉田松陰、佐久間象山、村田氏寿、橋本左内、島津斉彬、松平慶永等が上げられ、勝海舟、坂本竜馬等志士達にも多大なる影響を及ぼしたことは言をまたないでしょう。
『海国図志』は、咸豊2年(1852)に更に増補されて100巻となりましたが、我が国に輸入されたのは、道光27年(1847)、29年の重刻本でした。
この本の中にキリスト教の記事があり、嘉永3年(1850)に既に3部輸入されていましたが没収され、更に嘉永6年に舶載された1部も長崎奉行所に保管されることとなってしまいました。
ところがペリー来航(1853)に続き、同年に国書を携えて長崎に入港したロシア使節プチャーチン応接の為に現地に向かった幕府海防掛川路聖謨は、再来を告げて去ったプチャーチンには会えなかったものの『海国図志』に接し、その有益なることを見抜いてそれを江戸に持ち帰り、直ちに老中阿部正弘を通じて将軍家定の許可を得て、儒者塩谷宕陰、蘭学者箕作阮甫に校訂、付訓を命じ、私費を投じて浅草の須原屋伊八に翻刻出版を依頼しました。また、原本の禁制も解かれ、嘉永7年には15部が輸入され、7部が幕府御用となり、残りは競売に付せられ江湖に散っていきました。
川路、塩谷、箕作は、緊急出版が肝要とのことから、巻一、二の「籌海篇」、内容は議守(防御)・議戦(戦闘)・議款(外交)、それに原本の「海国図志叙」、「総目」、更に塩谷の序と魏源伝を載せ『翻栞海国図志』と題し、嘉永7年7月に2巻2冊で刊出しました。原書は、「道光己酉夏 古微堂重訂」。
更にこの両者で、『翻栞海国図志亜墨利加国』、同『俄羅斯国』(安政2年刊、2巻2冊)、同『仏蘭西国』、同『普魯社国』(安政2年刊、1巻1冊)、同『英吉利国』(安政3年刊、3巻3冊)を上梓。
この本の禁制が解かれた後の出版界の反応は早く、塩谷本のような頭注が無いものの、巻末に「火輪船図説」を付して、中山伝右衛門が『海国図志墨利加洲部』(8巻6冊)と題し、塩谷本より3ヶ月早く出雲寺文治郎等、京・大坂・江戸8軒の名を連ねて翻刻出版しています。
他に嘉永7年中に13種の翻刻、和訳本が刊出されたことは、本書が如何に幕末の日本知識人に渇望されたかの証拠でしょう。更に上記を含めて、安政2年に5点、同3年に2点刊行と続きました。
上掲の図版は、唐本60巻本の叙。(つづく)
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